近所の居酒屋のオヤジが、NGT48の山口真帆(23)襲撃事件からのあれこれについて「他のメンバーはいったいなに考えてんだろうねえ?」といまさら首を傾げていた。それが群というものでございましょう、と学校以外はロクな群に属したことのない私は思うのだけれども、そして群については何回かこのブログでも触れたのだけれども、チカラ不足にしてなかなか伝わらない。
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しかし、やっぱりネットやSNSでインスタントに群れることができるこの時代、群れの怖さは心得ておくべきだと思う。
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そういえば、NGTとかAKBグループの全員登場!! みたいなステージ写真を見て「うわっ、おマンコが48コもか!!」と呟いた男がいる。もちろん完全シラフで。「ムレがムレムレ」。「レム睡眠」を「ムレ睡眠」といった男である。そういう見方も世の中にはあるのだ。品がのうてすまぬ。だからといってこれからもNGT48コ、AKB48コとは呼ばないようにしよう。
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もとい。群について書こうと思ったのは、『日刊サイゾー』(2019年5月21日配信)にこんな文章を見つけたからでもある。
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ではなぜ、女の子たちは “盛る”のか。本書では以下のように考察している。
「少し間を置いてから、彼女はこう答えた。「自分らしくあるため」私は驚いた。(中略)自然のままの人間の顔には多様性があるが、人工的に加工した顔は均一化する。「盛り」は自分らしさを消す行為だと考えていた。それなのに、彼女の「盛り」は自分らしさのために行っていると言う。私はその後、何人もの女の子に同じ質問をしたのだが、最終的に出てくるのは「自分らしさ」や「個性」という言葉だった。(略)日本の女の子たちの中には、最初から個性を表現するのではなく、まずは型を「守」り、それができたら「破」って個性を表し、それが真似されたら「離」れて新しい型を作ることができるという「守破離」の美意識がある。2000年代のデカ目にもそれが表れていたのだ。彼女たちが言う「個性」とは、最初から表す個性ではなく、コミュニティで共有するデカ目という「型」を守った上で表す個性。絶対的な個性ではなく、相対的な個性だったのだ」(本書P203-210)
久保氏は、“盛り”が形成する女の子のコミュニティを、より重要視して語っている。個人主義の西洋では「コミュニティで作る個性」という概念がなかったが、インスタグラムなどSNSの普及により、コミュニティ主義に変化しているという。95年ごろからプリクラコミュニティを形成していた日本の女の子たちは、かなり先進的だったのだ。この“盛り”コミュニティの変遷についても、時代を追って詳しく述べられているので、興味がある方はぜひ読んでみてほしい。
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記事のタイトルは【現代女子の目はなぜ異常なほど大きいのか? “盛る”女子たちの美意識の謎に迫った『盛りの誕生』】。で、『「盛り」の誕生 女の子とテクノロジーが生んだ日本の美意識』(久保友香著/太田出版)という本について書かれている。興味がある方はぜひ読んでみてほしい。
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ここでは、なぜ現代女子高生はガングロだのヤマンバだの「明らかに一般ウケ・男ウケしないメイク」にまで盛って盛ってもりもり盛って到達してしまうのか、について考察されている。たとえがちょっと古いが。
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『盛りの誕生』では「守破離」、つまり「型を『守』り、それができたら『破』って個性を表し、それが真似されたら『離』れて新しい型を作る」のが現代女子高生の「個性」の表し方だということになっているらしい。しかしこれは個性そのものについてではなく、「個性」の扱われ方についての記述だ。
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もしかするとこの記事が『盛りの誕生』の意図をよく読み込めていない可能性もあるなあ。でも書店に走る時間もないので右から左へ受け流す(byムーディ勝山)。
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記事の記述に沿って、「守破離」の「守」はまずその群に属すること、「破」はそのなかでの自分らしさを表現すること、「離」は群の離散、とする。で、ここが重要なのだけれども、群に属することは「型を守る」ことではなくて、自分を確認することだと私は思う。でしょ。自分を確認する、自分を自分として認識するために群に入る。そこではそこの型を守らなければならない。という順序。
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で、まあ、型も徐々に古くなっていくので修正を加えたり変種を生んだりしてアップデートしていく。そしてそれが多岐にわたるようになってひとつの群の役割が終わる。と。
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したがって群の初期の段階では、「ああ、いま私はこのなかにいて私は私よ!!」とほとんどの個人が高揚しているわけである。であるから、反対側から見れば同化圧力がガンガンに強い。群の空気に馴染まなかったり、異議を唱えたりする異質な存在はたいへん不愉快に感じられる。
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自分の存在根拠がかかっているので、一つひとつの事実関係などどうでもいいのだ。とりあえず現状で動いていかなければならない。私が私でなくなるので。異質な特定の個人に対するガン無視だの潰しだのはこうして起こる。NGT48の場合、そこに立たざるを得なくなったのが山口真帆だ。
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ほかのメンバーは、個々の温度差はあれど、決して自分たちが世間から糾弾されるような悪いことはしていないと感じている。ここで反応しなければ前には進まないとはわかっていても、沈黙を決め込んでしまう。そのうえさらに陰に回って脚を引っ張ったりもする。私が私である私を守るために。
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善し悪しではなくそれが群というものだ。群の原理。でもってNGTみたいな女子集団ばかりでなく、たとえば男優位の企業や団体の組織ぐるみの不祥事、隠蔽なんかもしばしば起こる。いいオトナがやっていいことと悪いことの区別くらいつかないのか!! と傍では憤るけれども、つかないのである。
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ただいま現在、NGT48のメンバーたちが続々と謝罪のコメントを発信しているらしい。まあ、一件落着のあと始末ではあるけれども、とりあえず異物を排除して存在を脅かされるイライラから解放された群としての安心感も後押しして冷静になれた部分もあると私は思う。
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あ、それからタイプは異なるけれども、戦争発言で叩かれている丸山穂高衆議院議員(35)なんかも、群のなかの異物といえるのではないか。一部おまえがいうなの正論で抵抗して周囲にたいへんな不快感を提供している。稀に群のなかにあって横紙破りをすることで存在の実感を得るという厄介なヤツがいるのだ。
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そうすると、群の最初をつくるのはいったい誰か? またはなにか? という疑問が残る。最初のガングロはどのようにして誕生したのか? それ以前に流行っていた、たとえばコギャルの変種? アピアランス的にはそういうものだとして、そこにそれがあんたよという承認を与えるものはなんなのか?
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それはたぶんスゴーく性格の悪い人物の同じ群の仲間への悪口からだろう。群のなかに潜む悪意。それよ。仲間との違いを際立たせる悪口。そして従う者への承認。で、また新しい群が生まれる。進化の悪意。はじまりは生存の戦略としての悪意。NGTでもそんな悪魔的な部分が垣間見えるときがあるでしょ。
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うまく説明できたかどうか自信なす。(了)
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