近ごろモノゴトへの関心が薄くなってきました。たとえばテレビはどのチャンネルにしようか、とか、なにを聴こう、とか、夕食はなににしよう、とか、知り合いに会うのはいつにしよう、とか、そんなものはすべてなんでもいい、どうでもいい、という感じになっています。とにかく“選ぶ”というのが、まずはメンドくさいのです。
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で、もう少し大きく、いまなにをしたいか? 誰に会いたいか? どこへ行きたいか? と考えても、そういうものもとうぜんありません。お地蔵さん並みに欲がないのです。近所の居酒屋のオヤジはこんな私を捕まえて、心がない、この世にいない、さらには、あまり食材の整理係、ということさえいいます。自分でもときどきもうすぐ死ぬのではないのだろうか? と不安になります。
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どうしてこんなことになってしまったのだろう? と考えるのも実はどーでもよかったのですけれども、みなさま方に事情をご理解いただくためにここで考えてみると、もちろん、すべての欲望が満たされたので関心がなくなったなどというわけではありません。貧乏ですし、人間関係もとても狭いです。まあ、この2つは「ぺこ&りゅうちぇる」みたいなもので必ずワンセットです。
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りゅうちぇる、ひとりではおもしろくないしネタもすぐに尽きる、そこで2in1パッケージで売り出したという、きわめて戦略的な匂いのする方々ですね。リアリティ番組のフォーマットをそのまま実生活全体にまで敷衍して見せています。これからこういうカメラの枠を超えたリアリティ番組ぽいものが増えていくでしょう。まともなフィクション=ドラマはつくれませんし。
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もとい。私の関心の薄れというのは、たとえば清貧というような、自ら積極的に選び取ったことではもちろんなくて、ただダラダラと消去法で生きてきたらこうなっていた、ということです。ですからひきこもりの精神状況とも少し共通する部分があるのかなあ、とも思います。
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そんな私ですけれども、逆に、要らないものは手にしない、やりたくないことはしない、というのは、これはほんとうに譲れないところです。で、これが「それはほんとうに必要なのか?」「それがほんとうにしたいことなのか?」ということになってくるとまたメンドくさくなります。この辺りの取捨選択は、まあ時間をかけてなるようになってきた感じです。
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感じです? なにをエラそーに、とおっしゃられるかもしれません。そうなのです。要らない、やりたくない、というふるまいは、ほんとうの土壇場での選択でもなければ目にも留まらず、したがって評価されにくいものです。たとえば、それはあなたの部屋にないモノであなたを評価するというようなことですから。
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と、ここまではモノだったりコトだったりのお話ですけれども、これが情報となると、要る要らないを峻別するのはほとんどムリなわけです。ニュースなどはとりあえず見出しに引っかかってサラッとでも読んでみなければ必要な内容なのかどうかはわかりません。
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その結果、自衛官が同僚の漫画単行本300冊を盗んで懲戒免職になった、とか、小池百合子(64)の顔は二重になっている、とかジャイアンツの菅野智之(26)がデートした、とかRAG FAIRのおっくん(38)が結婚したとか、カルティエが値下げしたとか次の選挙は自民党が大敗だろうとか、サムスン会長に買春疑惑だの、どーでもいいニュースにたっぷり出会ってしまうわけです。アタマのなかがガラクタでいっぱい。
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さらに、世の中には作品と呼ばれる膨大な数の映像や文章もあるわけです。これはもう、勘に頼ってバッサリ切り捨てるしかありません。もうあまり時間がないので。ここでは、妙に完璧主義なのも足を引っ張ります。フーテンの寅さんについて語ろうとするなら映画『男はつらいよ』全48作+特別編は観ていないとダメでしょ、となるとバッサリいかざるを得ないのです。
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そもそも三島由紀夫(享年45)がなにかに「世界で最も“速い”文章を書くジャン・コクトー」と書いたときに、え? 由紀夫は世界中の文章を読んだのか? と疑問に思った男ですから、私は。バッサリいくか、頑張って読むか。まあ、結局はバッサリいっても頑張りはしないのですけれども。
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しかし、ときどきはバッサリいきます。なんのために取捨選択するかといえば、繰り返しになりますが、限られた時間をムダにしたくないからで、そうすると古今東西、あらゆるジャンル、カテゴリーとの比較対象になるわけです。で、村上春樹(67)の『1Q84』はやめて団鬼六(享年80)の『花と蛇』(幻冬舎アウトロー文庫全10巻)にしておこう、というふうになります。私の場合。
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その結果、大長編SM小説『花と蛇』は作者、団鬼六の忍耐力に付き合うものだったのだ、ということがわかるわけです。だいたい文庫本で50ページくらいあれば足りる内容で文庫本全10巻、ほとんど無限にループしています。
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なかでもとても退屈で象徴的なのが、主人公の静子夫人という上流階級の若奥様の精神がまったく変わらないことです。長期間監禁され弄ばれ、全裸で男たちに囲まれて浣腸までされてしまったというのに、また同じメンバーに引き立てられての陵辱場面では、必ず「なにをなさるんですかっ。そ、そ、そんなことっ、おやめくださいましっ」です。これはダメでしょう。
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静子夫人、過酷な経験を重ねているのですから、徐々にタフになるとか逆に壊れていくとか、なにがしかの変化がないと不自然です。あのー、たとえがまたたいへん不謹慎ですけれども、ロシアのラーゲリに何年も捕らえられていて、まるで昨日の今日のようにシレッと出てこられるわけがありません。
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え? だからそういうふうにいちおうは貞淑な女をいたぶる設定でなければ読む男は興奮しないにきまっている? うむ。通りすがりの知り合いのいうとおりでございます。たしかに、へいっ! 毎度いらっしゃい!! ではどうにもなりません。男を勃たせようとすれば、そういう芝居の書き割りみたいな、あまりにもありきたりで通俗的な設定にはなります。
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勃つというのは徹底的にゲスなものです。高尚なポルノ、知的ポルノ、哲学的ポルノなど存在しません。勃たせるか勃たせられないか、2つにひとつです。これもポルノ小説に文学的な価値が認められない根本的な理由ですね。ネモトテキ。なにをリキんでいるのだか。
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しかしながら団鬼六の『花と蛇』は、もっぱらゲスなことを書いているポルノなのにもかかわらず、男の勃ちに徹底的に奉仕するのだ、という決意が感じられないのです。そこがぬるい感じがします。
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だからー、そこのー、良家のー貞淑なー奥様がー崩れていくところが鬼六の美学なんじゃないのー、鬼六は『花と蛇』に関しては、他の男の勃ちのためだけに書いたのではなくてー、そういう美学を表したかったんじゃないのー!!
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うむ。通りすがりのお方、ありがとうございます。ですから書くたびに最初のときと同じく、静子夫人は何回も崩れなければいけないということですか。 うむ。美学ですか。鬼六の美学、多様な展開が見られなかったということは、あまり深くはなかった、ということですね。
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まあ、良家の貞淑な美人奥様がならず者に家を乗っ取られ……、というのはいまからすればいかにも古いです。いかにも古くてついていけませんけれども、これが書きはじめられた1962年(昭和37年)にはまだそれほど陳腐ではなかったということでしょう。しかも“良家”“貞淑”“美人奥様”というイメージ、いってしまえば幻想はいまなお健在です。
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もとい!! それで情報の取捨選択の話ですけれども、こんな具合に『花と蛇』を読みつつも、切り捨てた『1Q84』にうしろめたさがないわけではないのです。『花と蛇』とどっちがつまらなかったか較べられなかったのは残念だ、と。
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そういう情報の“切り捨て”と、もう一方の、日々洪水のように押し寄せてくるどーでもいいガラクタニュースとのあいだで、私のアタマのなかの何かが死んだフリをしているような気がするわけです。で、“選ぶ”のがメンドくさい、なんでもどーでもいい、ということになっているのではないか、とボーツと考えています。
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今日はたいへんくだらない話にお付き合いいただき、ありがとうございました。お礼といってはなんですけれども小説『花と蛇』のラストシーンを、こっそりお教えしましょう。エンディングに向かって物語が進展する小説ではなくて、どこを切っても同じ金太郎飴みたいな小説ですからご迷惑にはならないと思います。私が読んだ幻冬舎アウトロー文庫版が最終稿のはずです。
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最後は、またまた静子夫人が恥ずかしめを受けているところに、夫人を裏切ってならず者の仲間に入った女中なども加わり乱痴気騒ぎになった場面です。で、その女中の精神が徐々に逸脱しはじめる、というところでジ・エンド。「今日は乱交はパーティーよ」とかなんとか叫んだのでした。気分的にはトー・ビー・コンテヌーです。
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それにしてもいじめるほうの女中の気がふれるのですから、静子夫人、たいしたものであります。引き比べてメンドくさいとかどーでもいいとか、なんと情けないことでありましょう。もう少し頑張ります(了)
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