北海道釧路市の大型商業施設で、6月21日、1人が死亡、3人が重軽傷を負う殺傷事件が起きた。容疑者は同市内に住む松橋伸幸(33)で、「人生を終わりにしたかった」「死刑になってもいい。殺人が一番死刑になるかと思った」と供述しているという。
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まだ捜査中ではあるけれども、通り魔的犯行による無差別殺傷事件で間違いないと思う。正直、またか、である。うんざりである。「人生を終わりにしたかった」と供述していると聞いて、おそらくほとんどの方々は「自分ひとりで死ね!!」と思ったことだろう。私もそうだ。
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22日の『とくダネ!』(フジテレビ)でも小倉智昭(69)が「死にたかったらてめえで勝手に死ねよ、といいたくもなる」と語気を荒げていた。小倉智昭が語るくらいだから、これがいわゆる世間のベタな感想なのである。智昭のお墨付き。
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なぜ松橋伸幸は自分ひとりで死ななかったのだろう? 自分ひとりで人生を終わりにした者も大勢いるけれども、松橋伸幸はそうはしなかった。ちなみに内閣府自殺対策推進室の発表によると、2015年の自殺者総数は2万25人である。
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一時の3万人台からここ4年ほどで自殺者の数は大幅に減少している。しかし平均すれば毎日約54人が自ら命を絶っているのである。1時間に2人以上である。凄惨である。松橋伸幸に対して「自分ひとりで死ね!!」と叫ぶのはしごくあたりまえの感情だと思うけれども、これほど多くの自殺者が発生している不幸な現実もまた忘れてはいけないと思う。
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なぜ松橋伸幸は自分ひとりで死ななかったのだろう? 無差別殺傷にいたる動機を、その要素として思いつくままに羅列してみよう。
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(1)社会や世間に対する強い恨み、憎悪
(2)特定の個人や組織などに対する恨み、憎悪の転嫁
(3)自暴自棄
(4)自分という存在の誇示
(5)自分という存在の確認
(6)死にたいが自殺できない
(7)死刑そのものへの憧れ(自己懲罰)
(8)死刑そのものへの憧れ(ナルシシスム)
(9)歴史的、宗教的、政治的使命感(テロリズム)
(10)死、殺人への興味
(11)サディズム
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(2)の「特定の個人や組織などに対する恨み、憎悪の転嫁」とは、要するに八つ当たりである。(3)〜(8)はすべて、カタチを変えた自殺、自殺の一変種ということもできる。(11)は殺人によって性的な快感を得ようとするものである。
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(8)の「死刑そのものへの憧れ(ナルシシスム)」については、やはり例の、グイド・レーニの絵画作品「聖セバスチャン」 がよく表現していると思う。
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この絵は、三島由紀夫(享年45)の小説『仮面の告白』で、「チシアン風の憂鬱な夕空との仄暗い遠景を背に、やゝ傾いた黒樹木の幹」に、「非常に美しい青年が裸でその幹に縛られ」、「手は高く交叉させて、両の手首を縛めた縄が樹につづ」き、矢が「左の腋窩と右の脇腹に箆深く射されてゐる」と描写されている。
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これとまったく同じ図柄を模した、篠山紀信撮影による三島由紀夫のポートレイトがある。矢に射抜かれた演技をしながら、おそらく三島由紀夫はカメラのシャッター音に陶然としていたに違いないのである。気持ち悪いのである。ナルシシズムとはそんなものである。
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実際の無差別殺傷事件の犯人の場合は、この11項目のうちのいくつかの要素を重ねもっていたり、また2つの項目のあいだの中間点あるいは微妙なグラデーションのなかにいたりする。たとえば「八つ当たり」と「自暴自棄」、「自分という存在の誇示」と「自分という存在の確認」とは明確な線引きができない。
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で、釧路市の大型商業施設で殺傷事件を起こした松橋伸幸の場合である。いまのところ「人生を終わりにしたかった」「死刑になってもいい。殺人が一番死刑になるかと思った」という言葉しか伝わっていない。仕事は新聞配達のアルバイトをしており、精神的に不安定で通院歴もあったという。
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22日夕方のテレビニュースでは、松橋伸幸の実家近くに住むお婆さんの「いつもニコニコしていて、やさしい好い人だと思っていました」というインタビューが流されていた。
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松橋伸幸は、日本に密入国して東京ディズニーランドで遊んでいたころ(2000年ごろ)の、金正恩(34)の長兄、金正男(45)によく似ている。あれでニコニコ愛想がよければ、好い人に見えるだろう。 金正恩だってそうだ。
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「人生を終わりにしたかった」と思って殺傷事件を起こし、「死刑になってもいい」と語るのはいささか矛盾しているし、さらに「殺人が一番死刑になるかと思った」という言葉は振り出しに戻る。「人生を終わりにしたかった」から「死刑になりたかった」とストレートにいかなかったところに、松橋伸幸の行動にいたった謎を解く鍵があるような気がする。
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無差別殺傷にいたる動機を、その要素として思いつくままに羅列してみた11項目のうち、松橋伸幸にあてはまると思えるのは、以下の3項目である。もちろんいま現在、得られている情報で考えられる範囲だけれども。逆にいうと、この3項目がなんらかのカタチで解決されていれば、松橋伸幸はとっとと1人で死んでいただろう。
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(4)自分という存在の誇示
(5)自分という存在の確認
(6)死にたいが自殺できない
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本人が「人生を終わりにしたかった」といい、「死刑になってもいい」と語っているのであるから次の7項目はあてはまらない。「死刑になってもいい」といういいかたは、“死刑で死んでもかまわない”ということで、積極的に死刑という方法で死ににいこうとしているわけではない。
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(1)社会や世間に対する強い恨み、憎悪
(2)特定の個人や組織などに対する恨み、憎悪の転嫁
(7)死刑そのものへの憧れ(自己懲罰)
(8)死刑そのものへの憧れ(ナルシシスム)
(9)歴史的、宗教的、政治的使命感(テロリズム)
(10)死、殺人への興味
(11)サディズム
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残った(3)の「自暴自棄」は、なんというかオールマイティーで、刹那的にすべてを放棄したい、すべてから逃れたいと願うことである。であるから、これは他の10項目すべてに付帯して実行を即す着火剤みたいなものかもしれない。でもリストを書き直すのはメンドくさいのでこのままにしておく。もうしわけない。
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さて、というわけで
(4)自分という存在の誇示
(5)自分という存在の確認
(6)死にたいが自殺できない
の3項目が、松橋伸幸が無差別殺傷にいたった動機ということになる。だがどうもピンとこない。間違ってはいないのだけれども、ただひたすらベタである。ベタで悪いことはないのだが、人間そんなにベタに行動するものなのだろうか? 私がひねくれているのか?
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「人生を終わりにしたかった」というのは「死にたかった」ということである。で、おそらくだけれども、松橋伸幸のアタマのなかでは、「生物的な死」と「社会的な死」とがごっちゃになっていたのではないか、と私には考えられるのである。
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「社会的な死」よりもとうぜん「生物的な死」のほうが絶対的なので、生物的に死ねれば「社会的な死」もへったくれもなくなる。しかし松橋伸幸には「生物的な死」をもたらす勇気、自殺する勇気がなかったのである。
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で、次に暗い心のなかに浮上してくるのが社会的な「死」である。人を殺したり傷つけたりすれば、社会的生命はほとんど絶たれる。これもまた「死」のイメージとして松橋伸幸を誘惑した、というか松橋伸幸に取り憑いたのである。
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社会的生命の「死」を意識するほどだから、松橋伸幸には相応の社会性が備わっていたのである。松橋伸幸の実家近くに住むお婆さんの「いつもニコニコしていて、やさしい好い人だと思っていました」という言葉もそれを物語っている。
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たぶん、釧路の事件はこんなようなことだったのではないか、と思うのである。なんだか投げやりで恐縮である。こういう事件について考えるのは、ほんとうに気が滅入るのである。これでお終い。
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もし万一、「人生を終りにしたい」「死にたい」と思ったら、それは「社会的な死」なのか「生物的な死」なのか、冷静に考えてみよう。私もそうする。そしてそれが「社会的な死」であるなら、もう一度、社会と闘わなければならないと思う。
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社会があなたや私を葬り去ろうとするとき、それに「社会的な死」をもって対抗しようとするのはバカげている。闘って破れた敗者のわずかな誇りさえ失ってしまう。
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おお、最後の最後、今日は思いのほかいい話になったではないか。いままで大嫌いだった言葉までも新しく甦ってきたではないか。素晴しい!! 「(社会的な死を)死んだ気になればなんでもできる」。たいしたものである。人生、最後まで諦めてはいけないのである。なにをいっているのかわからなくなってきた。(了)
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