2015年9月29日火曜日
川島なお美さんのニュースは、もう打ち止めにしませんか?
亡くなってほぼ1週間経ったいまも、川島なお美(享年54)の記事が目につくのである。最期を迎えるときまで現役であり続けた女優魂や、思いやり、やさしさ、誠実さなどを賞賛するもの、闘病のようすを伝えるものがほとんどである。彼女の死を惜しむ人々の気持ちがあるからそれに応えている、ということなのであろう。
*
具体的にどんな記事が出てきたのか、ごく短く要約してランダムに並べてみるのである。
●結婚は妥協、打算、惰性の「3D」なしだと語っていた。●9月7日のシャンパーニュColletのお披露目イベントの翌日、肋骨を骨折していた。●片岡鶴太郎が亡くなる3時間前にお見舞いをしていた。●頼っていた民間療法は純金で体をさするなど不思議なものだった。●テレビドラマ『失楽園』では前張りなしで演技をした。●臨終の直前に吐血して謝った。
*
*
胸ふさがれる壮絶さ、そして愚劣さである。残酷と屈辱といいかえてもいいかもしれない。そしてこれらが消費され尽くすまで、川島なお美に関する新しいニュースは流され続けていく、ということなのであろう。
*
しかもいまだにこれらの情報に添えて、9月7日のイベントに登場したときの、痩せ衰えた痛々しい姿の映像や画像が用いられることが多いのである。ニュース製作者の悪意すら感じることがあるのである。
*
*
確かにこれは最期まで女優としてのエゴを貫いた代償といえなくもないのである。しかしながら、私としてはもうそうっとしておいてやれよ、という気持ちなのである。そういう私自身、川島なお美の死に関連してこれまで4回、当ブログに書いている。
*
それは、役者の引き際、去り際とはどういうものか確認しておきたかったからである。役者、音楽家でもそうだが、その仕事は、まずそこに観賞してくれる客がいて成立するものである。にもかかわらず、自分のエゴだけで所期のフォーマンスが期待できない状態でありながら舞台に上がるのはどうか、ということである。
*
*
また日本では客観的な批評が成立しておらず、観客も舞台外での出来事と舞台上の表現をいっしょくたに受け取ってしまう傾向があることも指摘したつもりである。とくにこれからは、よく見知った俳優や歌い手の高齢化が進んでいくのである。このあたりできちんと押さえておく必要があると考えたのである。
*
であるから、川島なお美の死そのものについては、私はいっさい論評めいたことはしていないのである。死そのものは論評の対象になるものではないのである。川島なお美の死を美談扱いにするのも間違っていると思うのである。
*
*
死はあくまで個人的なものである。それをみんなが興味をもっているからという理由だけで公衆の共有物であるかのごとくマスコミが群がるのは、やはり非見識であると思うのである。連日マスコミ対応に追われている夫の鎧塚俊彦(49)の忍耐強さには、ただただ驚くばかりなのである。
*
事故や事件で突然の死を迎えた人についてマスコミが大きく取り上げる騒動を差して「2度殺された(死んだ)」という表現をすることがある。2度目に殺された(死んだ)のは、悼む人それぞれの胸のなかにしまってある故人の思い出であり、賞讃であり、感傷である。彼女の死を惜しむ人々とても、それは同じはずである。
*
だから、もう川島なお美のニュースはいらないのである。(了)
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿