断片的なニュースを組み合わせたりバラしたり、いろいろしていると、ことさらにドラマチックな物語を空想しはじめたりする。もちろんその場の思いつきなのでたいていはすぐに忘れてしまうけれども、しかしなぜかしつこく憶えていてあとでよくよく調べてみるとまんざらマト外れでもなかった、ということもある。
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今回のコレはそうとうイケそうな気がするのである。しかしいまは詳しく調べるパワーがない。とうぶんない。それで忘れてしまわないように書いておこうと思う。
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そのロクでもない空想とは、ジャニーズ事務所副社長・メリー喜多川(90)と、一方そのメリー喜多川によってジャニーズ事務所を追われたSMAPの元チーフマネージャー・飯島三智(58)の宿命的な因縁、である。
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ひとりよがりの空想物語ばかりお読みいただいていも申しわけないので、いくつかの新しいトピックスを含んだ以下の記事の抜粋からご覧いただきたい。
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◆『tocana』2017年9月12日配信
【元SMAP3人のバックに「戦後最大のフィクサー」! …にもかかわらず強すぎるメリー喜多川氏の反応がヤバイ】
《 〈— 略 —〉
退所した3人は当面フリーで活動していくが、早ければ10月にも「SMAP育ての親」と言われる飯島三智氏が受け皿として設立した新会社に合流するとみられる。テレビ関係者の話。
「芸能プロダクションのような形態ではなく、コンテンツビジネスを行う会社のようだ。営業部員を雇い、テレビ局に3人を売り込むのではなく、オファーがあれば、その内容を吟味して応じるかどうか決める“受身”なスタイル。すでに3人には仕事の窓口となる弁護士が付いている」
やはり芸能界を牛耳るジャニーズ事務所の影響力は強く「下手に出しゃばれば潰される」と考えているようだ。
そんななか、9日発行の「スポーツニッポン」が、解散によって白紙に戻った2020年東京パラリンピック公式応援サポーターの再就任情報を報じた。同紙によれば、キーマンはフジテレビの元敏腕プロデューサー・笹川正平氏。同氏の祖父は「戦後最大のフィクサー」と呼ばれる故笹川良一氏で、父親は総資産約3000億円とされる「日本財団」会長の笹川陽平氏。「超」の名門一族に生まれた四男の正平氏が、SMAPメンバーのパラサポ再就任にプッシュしているというが…。
「笹川正平氏はテレビマン時代にフジの『SMAP×SMAP』を担当し、その縁で飯島氏をバックアップしている。ジャニーズ事務所も退所組のバックに天下の笹川一族がいれば慎重になると思われたのですが、メリー喜多川氏は『そんなの関係ないわよ』と全く意に介していません」
そればかりか「SMAPを潰した女」という汚名を着せられ、いまもファンから集中砲火を受ける現状にメリー氏が激怒。スポーツ紙記者によると「飯島さんが頭を下げない限り、退所組のことは“認めない”というスタンスのようです。どの口が言っているんだ!と思うかもしれませんが、大戦の戦火をくぐり抜けてきたメリー氏にその理論は通じない。もはや事務所を去った3人、もっと言えばSMAP自体にも興味はありません。2020年のパラサポでSMAP再結集なんて夢のまた夢ですよ」と話す。
飯島氏とメリー氏が和解しない限り、メンバー5人が集うことはなさそうだ。》
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えっと、事務所を退所した元SMAP3人の仕事の窓口は弁護士、なのだそうだ。なぜに弁護士? 退所するにあたって事務所側となんらかのしち面倒くさい約束でもしたのであろうか? それとも著作権、肖像権がらみの案件が舞い込んだ場合の対応のためであろうか? いずれにしてもずいぶん固いガードである。ピリピリするものを感じる。
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その3人の受け皿になるであろうと目されている飯島三智(59)の新事務所の社長はまだ決まっていない。ジャニーズ事務所を去るときに「今後、芸能界に戻ることはない」という言質を残しているので飯島三智が表に出るわけにはいかないのだ。
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事務所の顔になり、また後ろ盾にもなってくれる人物をもう1年以上もかけて探してきたのであるけれども、田辺エージェンシーの田邊昭知(78)、“大手音楽出版会社の元役員であるY氏”、と、いずれも土壇場で断られ続けてきた。そこに最近になって現れたのが元フジテレビプロデューサー・笹川正平(37)である。
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しかし笹川正平について書かれたこの記事には重要な事実が抜けている。それは笹川正平の父親・陽平が会長を務める「日本財団」がパラリンピックサポートセンター(正式名称:公益財団法人日本財団パラリンピックサポートセンター)の設立を支援し、またこのセンターを通して2020年の東京パラリンピックに向けてさまざまな活動を展開している、ということである。
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したがって笹川正平が飯島三智の事務所に正式に籍を置くことになれば、SMAPの元メンバーたちと東京パラリンピックとは、やがて一直線の太いパイプで結ばれることになる。
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いわゆるパラスポーツは未開拓の巨大市場でもある。もしかするとこの場面での笹川正平の登場は東京パラリンピックへのSMAPの担ぎ出し・再結成、そしてパラスポーツ界でのイニシアティブの掌握という日本財団側の目論見を担ってのもの、という気さえしないでもない。少なくとも「夢のまた夢」、の話ではない。
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さて、私のロクでもない空想に弾みをつけたのは、「ジャニーズ事務所も退所組のバックに天下の笹川一族がいれば慎重になると思われたのですが、メリー喜多川氏は『そんなの関係ないわよ』と全く意に介していません」という部分である。
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まったく意に介していないはずはないけれども、もしほんとうに「そんなの関係ないわよ」と語ったのであれば、その“そんなの”扱いはいったいどこから出てきたのであろう? ということになる。ただのハッタリであろうか?
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いやそれは、かつてメリー喜多川(90)、ジャニー喜多川(85)の喜多川姉弟も“戦後最大のフィクサー”に可愛がられていたことがあったからだ。“戦後最大のフィクサー”が2人もいては都合が悪い。ここではっきりさせておくと、笹川正平、父・陽平、そして祖父・良一を枢軸とする笹川一族、つまり端的にいえば笹川良一には敵わないかもしれないけれども、喜多川姉弟が世話になった大谷貴義(享年85)もかなりの大物だったということである。
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便利なWikipediaからプロフィールを抜粋しよう。少々長くなるけれどもおもしろいので、ぜひ。
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《 大谷貴義は、和歌山県出身の実業家。日美創業者。
宝石卸を本業として「日本の宝石王」と呼ばれる一方、政財官界やアンダーグラウンドの世界に隠然たる力をもち、児玉誉士夫らと並ぶ「戦後最大級のフィクサー」と称された。特に、元首相の福田赳夫とのつながりが強く、「福田の影に大谷あり」と言われた。公の場にはあまり姿を現さず、代々木上原に1,000坪の豪邸を構え、十数人の使用人に囲まれて過ごしたため、謎のフィクサーとも呼ばれた。
大谷が保有していた肩書きは、主なものだけでも「裏千家最高顧問」「そごう最高顧問」「松下電器産業特別客員」「産経新聞社顧問」「毎日新聞社筆頭社友」「大阪産業大学名誉総長」などがある。また、マスコミからは、「最後のフィクサー」「闇の帝王」「日本の宝石王」「代々木の怪富豪」「日本の政財界の裏側で最も気になる人物」などと呼ばれた
義理の従弟である正示啓次郎(旧大蔵省官僚で元経済企画庁長官)を通じて、福田赳夫を筆頭とする多くの大蔵官僚や政治家と知り合う。その人脈を活かして宝石商としての地位を不動のものとし、日本宝石クラブの会長職に就任。
また、作家の吉川英治のすすめにより、長女の享子(1957年度ミス・ユニバース日本代表)が、裏千家14世千宗室の三男・巳津彦と結婚。媒酌人は、吉川夫妻と福田夫妻が勤めた。この婚姻を機に、巳津彦の母方の親戚である旧三和銀行元会長の渡辺忠雄や、裏千家と懇意であった松下幸之助と親交を深めた。なお、裏千家16世千宗室が容子内親王を夫人として迎えたため、三笠宮家とも遠縁となった。
さらに、元首相の田中角栄や、国際興業創業者の小佐野賢治、そごう元会長の水島廣雄らと懇意にするのみならず、戦後最大のフィクサー児玉誉士夫、山口組3代目組長田岡一雄、東声会(現・東亜会)会長町井久之ら、アンダーグラウンドの世界にも顔が利いた。許永中は若い頃に大谷のボディーガード兼運転手をしながら、フィクサー業の修行をした。後に、「大谷先生の下で働き、大人の恐ろしい世界を知った」と述べている。
上述の肩書きの多くは、政財官界やアンダーグラウンドの世界に対する大谷の絶大な影響力を頼み、経営危機からの脱出、暴力団や総会屋からの防衛等を望んだ企業側が提供したものである。
ジャニーズ事務所の社長・副社長であるジャニー喜多川・メリー喜多川姉弟が終戦前に帰国した際、大谷の元に身を寄せ面倒を見てもらっていた。
大谷が死去した際、葬儀委員長は福田赳夫が務めた 》
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ジャニー喜多川・メリー喜多川は1933年に父母とともにアメリカから帰国すると、いったん大阪に定着している。ジャニーとメリーが和歌山市の有力者、大谷貴義というか大谷家の庇護のもとに南紀勝浦温泉に疎開したのは1942年である。このときメリー16歳、ジャニー11歳。
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喜多川家と大谷家の縁は、おそらくジャニーとメリーの父・喜多川諦道が和歌山県高野山の導師であったことからだと思われる。その諦道が真言密教の布教のためにロサンゼルスに渡ったのにも大谷家の援助があったと推察され、そして彼の地でメリーとジャニーが誕生したわけである。
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メリー喜多川がジャニーズ事務所の初期、コンサート会場の近くで商売をするダフ屋やもぐりのプロマイド売りなどと臆せず渡り合えたのは大谷貴義の威光があったからにほかならない。そしてそんなメリー喜多川にしてみれば、笹川良一の孫といわれても“そんなの”であっておかしくない。
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メリー喜多川と飯島三智を対立する2項として眺めてきた私には、ともに“フィクサー”と呼ばれる右翼的人物・一族と深いかかわりをもつこと、もっていたことになにか因縁めいたものを感じるのである。
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この対立する2項は、実際の子供の有無はまた別にして、きわめて強い母性があるという点で共通している。メリー喜多川の母性は一人娘、藤島ジュリー景子(51)にジャニーズ事務所をより万全なカタチで継承させることに注がれ、飯島三智の母性は香取慎吾をはじめとするSMAP元メンバーの将来に注がれている。なかなかドラマチックではないか。
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さらにもうひとりメリー喜多川と飯島三智との因縁に関わり、さらにナゾを投げかける人物がいる。音楽プロデューサーの酒井政利(81)だ。デヴィ・スカルノ(77)とのパラサイト論争というか罵りあいの大喧嘩で有名になったやさしい物腰の、生涯独身のおじさまである。
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このおじさまはジャニーズ事務所黎明期から事務所と関係が深く、その推薦を得て、大学を卒業したばかりの飯島三智がジャニーズ事務所に入社したという経緯がある(Wikipedia)。で、酒井政利の出身地もまた和歌山県なのである。
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ジャニーズ事務所と酒井政利の関係は日本コロムビアなどでのレコードプロデューサーの仕事を通して築かれたものと考えるのが常識的であるけれども、もしかすると高校卒業まで住んでいた和歌山でのいきさつがあるのかもしれない。16歳のメリーと11歳のジャニーが南紀勝浦温泉に疎開したとき、酒井政利は7歳であった。
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メリーとジャニーはジャニーが旧制中学を卒業し、再び2人で渡米する1947年までは和歌山にいたはずであるから、酒井政利とは本人が12歳になる時点まで知り合う可能性はあったはずである。もし接点があったとすればお互いの記憶は鮮明なはずだ。
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うむ。さらに遡れば酒井政利の母親は幼い政利を連れて酒井家に後妻として嫁いでいる。酒井政利のほんとうの父親は不明である。母親は帝銀事件で死刑判決を受けた平沢貞通(享年95)の京都時代にその絵のモデルをしていたことがあって、酒井政利の父親は平沢貞通ではないか、という報道がなされたこともあった。
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平沢貞通は1948年8月21日に小樽の実家で逮捕されている。“京都時代”がいつのことなのかはっきりしないけれども、少なくとも実子か? と週刊誌上に取り上げられた酒井政利が生まれた1935年11月17日より1年ほど前は平沢貞通も酒井政利の母親も京都にいたことになる。ここのツジツマが合わなければ週刊誌も記事にはしない。
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メリーとジャニーの父親、喜多川諦道の妻・栄子は1934年に京都で亡くなっている。喜多川諦道という人は天衣無縫の破滅型で、自ら「やくざ」とか「遊び人」と称する異色の職業僧侶であった。大阪でおそらく1960年代後半から1970年代中ごろまでに亡くなっているけれども、そのときにはメリーやジャニーすら姿を見せなかったといわれている。
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なにをいいたいかといえば、酒井政利の父親が実は喜多川諦道であった可能性もないわけではない、ということである。酒井政利もジャニー喜多川もやさしい物腰が印象的であり、さらに喜多川諦道は8歳で大分県から和歌山県高野山に出家してきた“お稚児”であった。
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転じて飯島三智と酒井政利がどのようにして面識をもったのかはわからない。飯島三智に関する情報が一般人ということで極端に少ないからだ。酒井政利と同じ立教大学の出身だから、とか、父親がレコード会社の音楽プロデューサーであったから、という説があるらしいけれども、ともにいまいち説得力がない。
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大学の同窓生といっても22歳もの年齢差があるし、父親がレコード会社のプロデューサーならわざわざその父と同じ職業の酒井政利を煩わせなくてもいいような気がする。
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大谷貴義、喜多川諦道、メリー喜多川、ジャニー喜多川、酒井政利。この和歌山コネクションに飯島三智がからんだのは、ただ偶然にジャニーズ事務所に入社したということだけなのであろうか? なにかありそうな気がする。続きはいずれ新しい手がかりを得たときに、また。
(了)
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